sensus (2)

(続き)

それだけ当時の僕はその作品世界に自分が入り込んでいた
ということなのでしょうが、
このように作品世界に浸るということは
自らの感覚が作品そのものに
直結されるようなものではないのかなぁと思います。
この作品との感覚接続によって
作品世界は単なる自分の外側の世界の現象ではなくなり、
作品の持つ空気・情動・エネルギーといったものを
直接的に肌で感じることができるようになるわけです。
その結果、作品の終焉は単に自分の外側での出来事ではなくて、
自分の内側に起こった、その作品との感覚の断絶であり、
この感覚遮断の反作用が
作品を失ったなんとも言えない悲しみを
生み出すのはないのかと思うのです。

一方、最近の僕はというと
作品を対象として「観よう」としてしまいがちなため、
結果的に作品そのものが本来持っているモノを
感じることができていないのではないのかなぁと思います。
「観る」ためには対象との距離が必要なわけであり、
それはまさに上述した作品との感覚接続とは
全く正反対の行為なんですよね。
したがって、作品が終了しても
単に自分の外側の世界に変化が生じたに過ぎず、
あのなんとも言えない感覚が今の僕に生じるはずがないのですよ。

うーん、ああいう感覚って
年をとって感情の起伏に乏しくなったことも手伝ってか(苦笑)
もう僕が自発的に味わえるものでもなくなってきた感がありますし、
あの感覚を呼び起こしてくれる作品ってホントに貴重だと思います。

ちなみにそんな僕にここ最近唯一その感覚を生じさせたのは
上述したようにシンフォニック=レインなのですが、
この作品の特徴は、理屈とかそういったものに頼らず
まさに文字通り登場人物の感情の流れ(雨)が
音楽と響きあう(シンフォニー)という
ところにあり、感性の極限とも呼べる作品でした。
この洪水のようにあふれ出る感性が
僕を作品世界へと引きずりこんでいき、
スタート時点ではこの作品を「観て」いたはずの僕が
いつしかこの作品を感じるようになっていたのです。
うーん、理屈的な作品が好きな僕ですけど
結局は感性には敵わんということでしょうか。

うわ、気がついたら長くなりすぎ。
肝心のデスノートの感想は次回に。