fortuna (4)

(続き)

とまぁこのように構造はしっかりした作品だと思うのですが、
どうしてこうも心に届かないのでしょうか(笑)。
結局この構造・素材が作品として
あまり生かされていないということなんでしょうね。
例えば、『DEATH NOTE』という構造体・登場人物に
生命力・エネルギーを吹き込み
作品としてある程度の説得力を生み出したのは
小畑健さんの凄まじいまでの画力だと思うのですよ。
ガモウひろし先生がそのまま漫画化していたら
きっと何かいろいろと間違った作品になっていたでしょう。

ガンダムSEED DESTINYがこれらの素材を生かしきれなかった理由は
上述した構造の枝葉末節まで描こうとした結果
構造の強弱のバランスをとって描くことができず
作品全体像がぼけてしまったことでしょう。
例えば、この作品において本当に重要なキャラクターは
キラ側ではなくシン・レイたちなのであり
もう少し彼らの視点に時間を割く必要があったはずです。
一応形だけの主人公ではあったシンはまだましだったものの、
レイにいたっては描写が全く足りておらず
レイというキャラクターの重要性を意識して
この作品を見ていた人はほとんどいなかったのではないでしょうか。
(デスティニープランの一番の申し子である彼は
ある意味シン以上に重要な役割を担っていたにもかかわらず。)

そして、作品像がぼけてしまった一番の原因は
この作品構造の中心にあるはずのデスティニープランに
全く説得力がなかったことでしょう。
「はぁ〜、なんじゃそりゃ
んなので平和が実現されるわけねぇだろ」
と誰もが思ったことでしょう。
夜神月の新世界の方が百倍くらい説得力があります(笑)。
議長の言う「我ら自身の無知と欲望」が
こんなプランで克服されるとはとても思えません。
自分の未来が確定したところで
ありえない未来に対する憧憬は消えないでしょう。
そして、このプランによって皆の立場が平等になるならまだしも
遺伝子によって身分差が与えられるわけですから
身分差をめぐって対立が起こるでしょうし
こんなん誰が納得するゆうねん。
最終的に作品上否定されることになるデスティニープランとは言え
少なくともこのプランにある程度の魅力がなければ
デスティニープランを否定するという作品構造が
うまく機能しません。

(続く)