fortuna (3)

(続き)

この作品において重要なことは
このようにしてそれぞれのキャラクターが
自己に目覚めていくことで
議長のデスティニープランが
外側から(キラたちによって直接的に)ではなく
その計画の内側から崩壊したことでしょう。
特に、シン、レイ、ミーアは上述したように
まさにデスティニープランの申し子のような存在であったはずで、
彼らが自我を取り戻し未来を求めたことは、
キラたちが議長を打ち倒すことによって
外側からデスティニープランの遂行を阻止しただけでなく、
全人類が永遠の現在で充足しようというデスティニープランに
根本的に欠陥があったことに他ならないのです。

<i>でもボクたちはそれを知っている
分かっていけることも
変わっていけることも

だから明日が欲しいんだ
どんなに苦しくても
変わらない世界は嫌なんだ</i>

(この点が以前この作品との構造上の類似を指摘した
DEATH NOTE』との決定的な違いです。
DEATH NOTE』においては夜神月の新世界は
旧世界の信念によって阻止されたのであり
新世界がその内側からは崩壊する様子は描かれていません。
それゆえに、『DEATH NOTE』という作品は
夜神月の考えを完全に否定しているのではないと思うのです。
月の考えを作品上はっきり否定するなら
魅上が月から背反する様子をきっちり描くべき。
あのように両者が壊れた状態では・・・。)

そして、スペシャルエディッション版において
アスランは次のようにこの作品を締めくくるのです。

<i>人は我々の一人のように善悪を識るものとなった
今は手を伸ばして生命の樹からも取って食べ
永遠に生きるものとなる恐れがある
そうして人は罰を受け
歓喜という名の楽園を追われたのだと言う

だから人は手を伸ばすのだろうか
二度と戻れない遠い過去に失った園を求めて
だが時は戻らない
ならば俺は向かう未来にこそ それはあると信じたい
生命の樹などなくとも 幸福に暮らせる園を
いつか自分たちの手で作り出せる日の来ることを</i>

(続く)